青春を過ごした街、名古屋へ

まこちゃ

2009年09月20日 01:06


さし源様を後にし、時間に少し余裕があった為、かつての修業先を訪れることにした。

昭和58年、20才で宝石営業の修行の為に門をたたいた訪販専門会社、ジュエリーさんれい「宝幸商事」
ほぼ20年ぶりに訪れたかつてのビルの外観はほぼ変わることなく、まるで時が止まったよう。

中に入るとそこは・・・・かつてボディビルジムであった1階がジュエリー、トンボ玉、ビーズアクセ、修理工房等に変わっていた。

社長とも久しぶりの再会。2度ほど脳梗塞で入院した事、奥様も倒れ、後遺症が残ってしまったこと・・・
また、台風の水害で、1階が床上浸水してしまった事など、大変なこと続きだったようだ。

今は、娘さん(私が初めて会った時は高1だった。)と一緒にトンボ玉や半貴石アクセのTVショップ「QVC」通販事業をしているとの事。毎回数千本の商品を用意して、返品率も高いため、本当に大変な商売のようだ。

景気が早く戻ってくれたら、もう一度ジュエリーを本格的に扱っていきたいと意欲を語られた。
私の原点でもある宝幸商事、一日も早い復活を願っています。


最後に立ち寄った場所は、豊山町の「空港バッティングセンター」
住んでいたところが近かった為、6年間ほぼずっと通い詰めて行っていたところ。

しかしここは、あのシアトルマリナーズ イチロー選手、北海道日本ハム 稲葉選手が子供のころに通っていた事で有名。

実は、私が名古屋に居た6年間、この8番120kmの速球台で小学生だったイチロー君と1ゲームずつ交替で打っていた事が何度となくあるのです。
自宅が近かったのもあって仕事のあとで行くと、イチロー君とあの有名になった父親の宣之さんが必ず一緒に来ていたのです。
イチローは当時無口で一度も会話をしなかったけれど、お父さんとはよく話した。
彼がやりたいスポーツだったら何でも良かったし応援したと・・豊山中でエース4番を打ち、当時のナゴヤ球場での中部大会で優勝。中村監督の名電高にお世話になる事になりました、と喜ばれていた事。いつも8番台のこのネット裏でイチロー君をやさしく見守りながら話していた事がついこ昨日の事のようです。

それにしてもこの場所も機械も何も変わっていない、まるでタイムマシーンに乗って25年前にタイムスリップしたような数時間でした。

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